陶芸家
小島 こじま 英一えいいち
茨城県 笠間市
小島 英一

’46年 千葉県千倉町生まれ。二松学舎大学大学院修了後、笠間市の製陶ふくだ、桧佐陶工房に勤務。翌年、現在地に築窯し『陶潤舎』設立。女子聖学院短期大学、鯉淵学園の講師なども務める。

著書に『陶芸の彩色技法』(共著)、伝統工芸品シリーズ『益子焼』(ともに理工学社)がある。

瀬戸屋になる - 彩初窯市のこと - ex1

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写真 | 小島英一

'18年。福引や福袋、縁独楽がお正月らしいイベントでした。

彩初窯市は20回目を迎える。

1991年に笠間焼協同組合が結成され、その6年後に工芸の丘がオープンしました。春には陶炎祭、秋には匠のまつりが開催されていました。さらに笠間焼協同組合の補助事業として笠間焼販路拡大事業が計画され笠間焼フェアがはじまりました。

笠間稲荷神社に当時30万人以上の人が参拝に訪れているのに、笠間焼のイベントがあった方がいいという声が続いていましたが、なかなかまとまりませんでした。

原因(理由)の一番は参拝客と焼き物では客層が違うといった意見が多かったことと会場となる工芸の丘が第三セクターで公務員と同じく、暮の28日から正月三ヶ日が休日になっていたことでした。

組合の理事に任命されて、初仕事が正月の陶器市の企画でした。会場は当然、先行していた笠間焼フェアと同じ工芸の丘でした。まずは会場使用の許可をとらないことには何もはじまりません。恐るおそる社長の久保さんに相談にいったところ、鶴の一声で決まり、工芸の丘の営業も正月二日からに決まりました。社員の人たちは大変だったと思います。正月は家族と一緒に過ごしていたのが突然仕事になったわけですから。今になって思えば、久保さんの英断には、ただただ感謝しかありません。

開催できそうだとなったら、次は内容の検討がはじまりました。工芸の丘の担当社員の袖山さんと二人で案をなりました。まず考えたことは正月らしさをどうするかということでした。甘酒の無料提供はすぐに浮び、というのは組合職員の家族が糀屋さんなので協力をお願いすることにしました。

次に考えたのがオークションでした。マスコミの取材対象になることはお客さんの動員には欠かせません。話題になるための企画でした。10年くらい続けたかと思いますが、せり人というのは特殊技能で、誰にでもできるものではないので人材不足と、ひとりで店番しているので、オークションの係になると負担が大きく不評で、現在では福袋にかわりました。

話は前後しますが、袖山さんと二人で練った企画書を組合理事長に提出し、審議され、参加費の訂正を受けて、無事採択され、いよいよ実現にこぎつけました。

組合の主催事業になったので事務局長の深町さんと、市の後援申請や商工会などへのあいさつ回りからはじまり、ポスターや会場案内図作成のためのデザイナーとの交渉、ガードマンの発注など陶炎祭や笠間焼フェアの経験があったからできたことでした。

第一回の参加者は30名くらいだったと記憶しています。開催説明会では陶器を売ることは大切だけれど、せっかく笠間に来てくれた人たちが十分でも長く滞在してもらい、笠間の魅力をみつけるそんなきっかけになったらいい、たばこ一箱、缶コーヒー一本でも買ってくれたらいい、そのくらいの気持ちで参加しませんか、と話しました。なにしろ、お客さんが来てくれるのか見当もつかないことで不安だらけでした。そんななかで、お前さんが企画したんだから、付き合ってやるよといって参加してくれた二人はもうこの世にはいません。二人の友情には、ありがたい以上のものがあり、消えません。

20回にもなると、いろいろなことが起こります。会場が高台にあるため、強風にはいつも悩まされます。特に南からと西からの吹き上げてくる風が強敵です。一度テントが飛ばされて駐車中の乗用車の上に落下し、その補償のために参加者にカンパをお願いしたこと、組合に多大な損害を与えたことは、痛恨の極みです。また県への会場使用許可の申請を事務局が失念していてトラブルになり、あわてて謝罪にいったこともありました。一度だけ元旦に雪が降り除雪におおわらわになったこともありました。

雪の次は暖冬の年には甘酒の発酵が進み、酢になりそうになり、あわてて重曹で中和したこともありました。

悪いことばかりではありません。自主的に大道芸を披露してくれた人がいました。南京玉すだれで正月気分を盛り上げていただきました。バルーン・アートが知られるようになる前でした。来場した子供たちが喜んでいたことは忘れられません。地元の蔵元から薦かぶりを寄贈していただき、正月にふるまい酒をしたことは現在では考えられないことです。飲酒や喫煙が会場内禁止になった今は、なんとなく淋しい気持ちがしています。

忘れていたことがあります。彩初窯市は始めは彩初市という名称でスタートしました。将来的には陶器だけでなく他のクラフトへと拡げていきたいと考えていたからです。笠間焼協同組合の主催でもあり、実態は陶器市だから、明確にすべきという考えが多くなり、彩初窯市と窯の一字が加えられました。これには先行して初窯市をしていたかまげんの久野さんから初窯市の名称を使うことに抗議されたこともありました。

大きな変化といえば陶製の独楽作りです。縁独楽えんこまとして笠間の新名物にしようと三、四十代の参加者が奮闘しています。あきらめなければ時間がかかっても定着すると思っています。マンネリ化するのはイベントに共通することですが、いま若い人たちの中から、ただ売るだけの陶器市だけでなく、来場者も出店者も共に楽しめるイベントにしようという動きがでて来ています。

彩初窯市は組合の主催事業から離れ、工芸の丘の協力、支援をうけて有志による事業になって、しばらくになりました。口を出すだけの人、出店するだけで他のことには無関心な人がふえてくるとイベントをする意義が失われ、存続がむつかしくなるのは世の常です。そうならないために、知恵を出し合い、進化していくためには、伝い出しっぺが責任を持って実行し、他の者が積極的に協力する意識を持ち続けることが大切です。潜在能力には問題はありません。寒い中で続けてきた連帯感が共通してあるのは他のイベントと異なるところです。

最大、参加者が90名になったこともありますが、現在では60名くらいに落ち着いています。中心となる人たちは変わらず、新たに参加する人が一割で、やめたり、休む人たちが一割といった具合で推移しています。正月という特殊な時なので、急激な変化はないと思います。

もうこのイベントは参加者だけのものではありません。新潟から毎年来て下さる方もいます。「これが楽しみ」と寒い中、福袋を求める行列に並んでいらっしゃる姿を見つけると、申し訳ない気持ちとありがたい気持ちで複雑になります。こんな時に大勢の人たちと一緒につくっているのだという思いを新たにします。 彩初窯市 18年前の2000年1月、第一回彩初窯市のポスター

2018.12.31公開 / 2019.6.2更新 | 小島 英一

脚 注

薦かぶり
【こも・かぶり】薦で包んだ四斗入りの酒樽。【薦】あらく縫ったむしろ。もとはマコモを材料としたが、今は藁を用いる。出典:岩波書店「広辞苑」第四版より

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陶潤社
小島 英一
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