陶芸家
小島 こじま 英一えいいち
茨城県 笠間市
小島 英一

’46年 千葉県千倉町生まれ。二松学舎大学大学院修了後、笠間市の製陶ふくだ、桧佐陶工房に勤務。翌年、現在地に築窯し『陶潤舎』設立。女子聖学院短期大学、鯉淵学園の講師なども務める。

著書に『陶芸の彩色技法』(共著)、伝統工芸品シリーズ『益子焼』(ともに理工学社)がある。

瀬戸屋になる - 私的笠間焼陶業史 - #4

#1 #2 #3 #4 ex1

窯元の修行を終えると、いよいよ独立です。自分で窯を持つことになります。4、50年前の笠間の窯はといえば、登り窯が一基、灯油を燃料とした両焚の倒炎式の窯が4、5基の他に最新のガス炉と電気炉が使われていました。

大きな窯元は技術革新でガス炉に、新興の窯は電気炉が多い時でしたが、そのどちらも高価で、独立しようとする者にとって、かなりの負担でした。そこに救世主のように現れた窯が「いってこい」でした。

「いってこい」は素焼窯を改良して本焼ができるようにしたものです。焚き口からの炎が窯の床下を通り、奥の壁に当たり、上昇し天井にぶつかって下降し、焚き口の上に設けた煙突から外にぬけてゆくことから、いわば炎が先にいって戻ってくるところから「いってこい」とよばれました。 陶潤舎工房 燃焼室から上がった炎がぐるりとまわって外に抜けていきます。

灯油を燃料とするこの窯は加守田章二さんによって益子にもたらされ、若い人たちの間に急速に普及しました。恩師、富本憲吉の葬儀のため京都におもむいた加守田さんが市立京都美術大学の助手だった岩渕重哉さんが考案した窯を岩渕さんの助手だった岡野法世さんに加守田さんが築いてもらったのが最新でした。登り窯とちがい、平地に築けるうえ、焼成時間も短く、手間もかからないうえに、築窯費も燃費も安くすむことから、新しく窯を築いて独立しようとする人たちにとって福音でした。

製陶ふくだ 登り窯

製陶ふくだの登り窯。

灯油や重油を燃料とする窯は両焚きといって焚き口が左右に二ヶ所ある倒炎式の窯が一般的でした。左右の焚き口を圴一に焚くことは熟練を要する技術で、両方のバランスをみるのにも人手がいります。それに比べ、「いってこい」は焚き口が一つなので、焚きやすい窯です。

製陶ふくだ 登り窯

横の階段の上まで、窯は段々と続いている。

築窯の費用は中古の煉瓦を使えば、電気炉の四分の一、ガス炉の二十分の一くらいですみます。当時の金額で十万あれば、一立方米の窯と、焼成に必要な棚板や支柱などを整えることができました。バーナーはたばこ農家がたばこの葉の乾燥に使っていたものが不要になり、安く譲ってもらうこともできました。(注1) 作業場の他には、ロクロと窯だけで二十万円くらいで、独立することができました。今日から窯元です。

「いってこい」の築窯は窯全体の重量が二トン以上になるので、基礎をしっかりとかためなくてはなりません。地表を三十センチ掘り下げ、割りぐりや小石を積み、よくつきかためた上に、窯の大きさ、約一平方メートルに煉瓦を二段敷きつめます。炉床です。

次に焚き口を除き、周囲の壁を築きます。厚みは煉瓦一帖、交互に目地がずれるように積み上げます。メジは五ミリ程度にします。厚いと焼成で煉瓦がずれたり、壁の強度が落ちたりして、温度の上がりにくい窯や壁のすき間ができ、炉内の雰囲気にむらができ、焼きにくい窯になることになります。

壁ができると、次は天井部分のアーチになります。木枠を固定したら、壁ぎわの両端から煉瓦を並べます。この時、アーチ用のセリ煉瓦があればよいのですが、無い時は煉瓦の片側をたがねで一センチ程はつり、組みやすくします。アーチの部分はどうしても目地が厚くなるので、中に煉瓦のかけらなどを入れて、すれないようにします。最終部分、アーチの中央で煉瓦が合ったら、煉瓦と煉瓦の間に煉瓦の端片を打ち込み、煉瓦が動かないよう、ずれないようにします。これを要石といいます。

次に、煙突を作ります。煙突は焚き口の上に二本立ち上げます。材料は煉瓦や土管を用います。土管の場合は二重にし、間に砂を入れて急熱急冷にそなえると同時に、鉄筋と針金で、倒れないように補強します。煙突で大切なことは、内径と高さです。これによって窯の温度上昇が決まります。焚き口からの炎は煙突から出てゆく熱量に比例するので、バランスを考えて作ります。引きの悪い場合は、急遽トタンで煙突をかさ上げして引くように、また、引きがよすぎると、窯が焼けずに、熱が煙突から逃げてゆくので、その時はダンパーで調節して、引きをおさえます。(注2)

築窯のための技術や知識は先輩たちの窯作りの手伝いをしたり、いろいろ教えてもらったりして覚え、後輩たちに受け継がれていきました。なかには窯の図面を貸してくれる場合もありました。気持ちよく窯の実測をさせてくれる人もいました。自分が教えてもらった気持ちが後輩に教えることを義務のように考えていました。そうしたことが、産地の自由な雰囲気をつくっていたように思います。

昭和40年代も後半になると、耐火煉瓦に加えて断熱煉瓦が急速に普及してきて、窯作りは一変します。断熱煉瓦は軽いうえに、やわらかく鋸でかんたんに切断できるうえに、熱効率がよいので、比較的高価だったLPガスも燃料に使えるようになり、窯を自作する人は少数派になりました。

ロクロや釉薬などの成形技術は覚えることはできましたが、窯の焼成まで覚えることは簡単にできません。窯焼きは窯元の仕事だったからです。そこで新しく窯を持とうとする時、焼成の楽な電気炉が急速に拡がりました。炎をコントロールする難しい技術は必要なく、燃料を保管する場所もいらず、せまい所に築くことができました。

窯の燃料に電気、ガス、灯油、薪がありますが、それぞれ特徴があり、どれが良いかの選択は難しいことです。つくるものと自分の性格のようなもので決めなくてはなりません。つくるものの興味は、長い間には変わりますし、体力の問題もあります。満足できる人は少ないし、いろいろな窯を築ける人はもっと少ないでしょう。ですから人は窯を使いこなすことに専心し、努力するのでしょう。

2018.12.2公開 | 小島 英一

脚 注

注1 (著者注)
というのは、昭和40年頃から火力乾燥からバルク式乾燥機による技術革新でそれまでの乾燥小屋やバーナーが使われなくなったためです。
注2 (著者注)
窯の全体ができあがると、最後は窯詰めの床、一段目を作ります。使用する棚板よりもひとまわり大きいサイズの棚板を二枚重ねて敷くために、床から三十センチ程の高さになるように、SK38番の煉瓦を窯の四隅と中央の五ヶ所積みます。棚板をすき間のないように並べて完成です。中央の煉瓦は分焔柱の役目も果たします。火焔は枝分かれしながら進むので、窯の両はじにも炎が回るように、狭間穴は中央をせまく、端になるにしたがって広くして炎の通りをよくします。
倒炎式の窯
昇炎式窯(例えば徳利窯など)に対する言葉。最初、窯の焚口で発生した火炎は周囲の壁に沿って上昇して天井に達し、さらに窯底に向い下降し、その間に器物を加熱し、次に窯の下部に配置された多数の吸い込み穴から主煙道や枝煙道を通って煙突に向い、その間、詰められた器物を加熱する。この構造の窯では吸い込み穴や主煙道、枝煙道が配置されることによって窯内焼成温度の上昇が均一化される。出典:陶芸用語大辞典 - http://www.tougeizanmai.com/yougodaijitenn/to.htm
加守田章二
1933年 - 1983年。大阪府岸和田市出身の陶芸家。参考:東京文化財研究所 - http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/
富本憲吉
1886年 - 1963年。奈良県生駒郡出身の陶芸家。参考:東京文化財研究所 - http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/
岩渕重哉
1925 - 1993。京都出身の陶芸家。
岡野法世
1937年 - 。東京都出身の陶芸家。
陶潤社
小島 英一
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