陶芸家
小島 こじま 英一えいいち
茨城県 笠間市
小島 英一

’46年 千葉県千倉町生まれ。二松学舎大学大学院修了後、笠間市の製陶ふくだ、桧佐陶工房に勤務。翌年、現在地に築窯し『陶潤舎』設立。女子聖学院短期大学、鯉淵学園の講師なども務める。

著書に『陶芸の彩色技法』(共著)、伝統工芸品シリーズ『益子焼』(ともに理工学社)がある。

瀬戸屋になる - 私的笠間焼陶業史 - #3

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瀬戸屋修行の第一歩は下働き、地走じばしりです。

地走りの一日は掃除からはじまります。工房内だけでなく、庭から展示場と呼ぶ店舗まで、ひとが立ち入りそうな所すべてが対象です。朝出勤したらすぐに掃除に取りかかります。そのうちに今日の作業の指示があり、それぞれの持ち場に散ります。

今は知りませんが、四十年前は教えてくれません。与えられた持ち場で、先輩たちの仕事を見ながら、自分にできそうな仕事を見つけてやります。やろうとすると「ジャマ、どけ」といわれることはしょっちゅうです。説明して、やってもらうよりも自分でやった方が、綺麗にできるだけでなく、早いからです。ここで落ち込んでいたら次がありません。ひとの目を盗むように、自分にできることをみつけ、ひとつずつふやしていくようにします。そうすると、仕事を任せてもらえるようになります。認められた嬉しさで頑張ります。これができるなら、あれもできそうだなと、次からつぎへと仕事を任されるようになります。

はじめは平板に並べられた素焼をはたき掛けをして、ほこりやチリを除き、釉掛けの準備をします。渡された時には納まっていた素焼が並びきれなかったり、強くたたき過ぎてこわしたり、先輩と同じようにやっているつもりでも結果は違います。無視する人もいれば、「何やってんだ」と馬鹿にする人もいます。先輩のやり方を見ていると「何、見てんだ、仕事しろ」と怒られます。見ないと覚えられないから盗み見しながら、どうにかできるようになります。素焼を平板に並べ、釉掛け場の棚にさすだけでも至難の業です。ベテランは腰で調子をとり、片手でさっさと運びますが、新人には夢のような業です。へっぴり腰で、両手で、必死になって持つものだから、がたがたして今にも落ちそうで、足もそろりそろりと、なかなか先に進めません。「手で持たないで、体全体で持て、腰を使え」といわれても、それができるようになるには、しばらくかかりました。 陶潤舎工房 小島さんの工房。こちらも完成を待つ作品がずらりと並ぶ。

製陶ふくだ 登り窯

製陶ふくだの平板には仕上げ前の作品が並んでいる。

釉掛けをさせてもらえる前に、高台拭きがあります。釉掛けした器の高台を水に浸したスポンジで釉をはがします。そうしないと、棚板に器が溶着してしまうからです。先輩たちが釉掛けした器の高台拭きで、尻拭きともいいます。平板に並べられた器の高台を拭き、綺麗な平板に並べていきます。はじめは先輩たちの三倍くらいの時間がかかっていたように思います。急ぐときれいに拭けていなかったり、平板に整然と並んでいなかったりと、散々な様相です。「急がなくていい。丁寧にやるように。慣れれば早くなるから」とアドバイスされても、あせります。一方では、遅いと馬鹿にされます。「こんなこともできないのか、やめたら」と、それがくやしくて、先輩の手元をよく見ます。やっていることは同じです。違いは無駄がないことです。 陶潤舎工房 工房のあちらこちらに、道具や、まだ素材の作品たちがある。

陶潤舎工房

今しがた迄仕事をしていたようなロクロ周り。

スポンジの絞り加減と使う面です。固くても、やわらかくても駄目で、一番いい状態がわかると綺麗に拭けます。また使うスポンジの面も大事です。汚れた面で拭いても綺麗になりません。汚れた面である程度拭き、最後の一拭きを綺麗な面で拭くとうまくふけます。それができるようになると、一回のスポンジで四個拭けます。はじめの頃は一個か、よくて二個でした。拭いた器を平板に置く時にはスポンジは水で洗われ綺麗になっています。こうして、一点いってんは動かせないけれど、その間の余分な動きをなくすことが、手仕事の基本だということを学びました。馬鹿にしていた先輩たちもほめてはくれませんが、認めてくれました。そうすると次の仕事が与えられます。

いよいよ釉掛けです。最初はずぶ掛けといって、器全体を釉の中に浸し、引き上げます。はじめは濃度の調整された釉に浸しますが、浸している時間が長いと釉が厚くかかり、焼成で流れたり、釉がはがれたりします。早すぎると薄すぎて、発色が悪かったり、釉だれによるムラができたりします。釉掛けをして、しばらく置いて乾いたら、爪で釉をはがして厚さをみます。丁度いい釉掛になるように、時間というよりもリズムを身体で覚えます。

ずぶ掛けができるようになると、次は器の内と外の掛け分けです。打掛けの場合はきき腕で器を持ち、手首を回転させながら、ひしゃくで内側に釉を掛けますが、回転が遅かったり、ひしゃくの傾けが早かったりすると、一回で、綺麗に掛からなく、色むらができます。今は内掛けのポンプや口のついたひしゃくがあるので、ずいぶん楽になりましたが、当時、一回でさっさと掛けるベテランのおばさん達がかっこよく見えました。

外掛けは器の中に指を入れ、落ちないようにしっかりと持ち、釉の中に口縁部まで沈めます。斜めになると内と外に隙間ができます。釉の表面張力を利用し、口のぎりぎりにまで掛けます。遅いと釉が厚く掛かってしまいます。気をぬくと、内側に入ってきてしまい、洗って綺麗にしてからやり直しです。集中していないと、失敗ばかりで、仕事をさせてもらえなくなります。また、器をそのまま釉に浸すと、高台の内側に空気が入っているので、器を回転させながら空気を抜き、浸します。そうしないと、高台の中まで綺麗に釉が掛かりません。

基本的に製陶所の仕事は分業です。与えられた作業をしていくなかで、多くのことを学びます。拭きやすい高台の形、釉掛の時に持ちやすい高台の高さや大きさ、それらが見た目の美しさ、使いやすさなどにつながっていることがわかるにはしばらく時間がかかり、当時は与えられた作業をこなすのが精一杯で、夢中でした。見て覚えろといわれ、見ているとみてないで手を動かせといわれ、人格まで否定されたような気分になったりしましたが、それも仕事中だけです。十時と十五時のお茶の時間には冗談をいいあったり、先刻の緊張が嘘のようでした。

できることは何でもやりました。掃除をはじめ、出荷に荷造りから、陶芸教室のインストラクターなど、指示される前にやらないと、それもでしゃばらないようにやれるまでには、……。

一日の作業が終わると、ロクロの練習がはじまります。ロクロができればこの世界で飯が食えると練習にはげみました。当時はまだ渡り職人といって、窯元から注文されてロクロをひく人たちがいました。皿や壺、急須など、熟練を必要とする仕事を専門に請負い、終ると次の窯元へと移動していきます。職人さんたちは一個いくらでロクロをひき、仕上げまでして終ります。これを賃引きといいます。賃引きで生計がたつようになるとロクロ師として一人前扱いされます。それを目指して、ロクロの練習にはげみました。

職人さんに教わったことは、最小の手数で最大の効果をだすのが手仕事の基本だということです。特に粘土はさわればさわる程、腰がなくなり、弱い形になってしまいます。同じ形でも力強く、魅力的に感じることもあれば、弱々しい形になっているだけの物もあります。作る人によって違いがでてくるのはこの辺りかもしれません。

2018.8.1公開 | 小島 英一

協 力

製陶ふくだ
寛政八年から約230年続く、笠間の窯元のひとつ。小島さんが働いていた’70年当時と変わらない風景が残っている。 〒309-1626 茨城県笠間市下市毛754 ホームページはこちら

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陶潤社
小島 英一
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