陶芸家
小島 こじま 英一えいいち
茨城県 笠間市
小島 英一

’46年 千葉県千倉町生まれ。二松学舎大学大学院修了後、笠間市の製陶ふくだ、桧佐陶工房に勤務。翌年、現在地に築窯し『陶潤舎』設立。女子聖学院短期大学、鯉淵学園の講師なども務める。

著書に『陶芸の彩色技法』(共著)、伝統工芸品シリーズ『益子焼』(ともに理工学社)がある。

瀬戸屋になる - 私的笠間焼陶業史 - #7

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1970年代の初めの頃。

「陶製ふくだで瀬戸屋修行を始めた頃は二十代の若者が次からつぎへとやってきました。それまでの窯元の多くが廃業し、残っているのが七軒になり、当時の窯業指導書の所長を中心に、陶芸家の誘致がはじまり、計画に賛同した人たちが根をおろし、弟子やスタッフを募るようになった頃です。と同時に折からの民芸ブームで笠間焼業界は活況を呈していた時期でもあったのでした。働き口はいくらでもありました。

当時の「陶製ふくだ」にも7、8人の若者が働いていました。ロクロ成形がほとんどで、石膏型は使わずに角皿などは手起こしで作っていました。ロクロ成形には二通りの職人がいて、窯元専属の人と「渡り職人」といって何軒かの窯元をかけもちしていて、急須や袋物という壺などどれぞれの専門がありました。修行中の身にとって渡り職人は雲の上の存在で、腕一本で生きていくカッコよさがあります。

窯については専従の人がいますが、見習いはロクロ成形以外の仕事のすべてをします。土作りから焼き上がった製品の荷造りまですべてを能力に応じてします。はじめは掃除から整理整頓からはじまるので、まったくの初心者でも窯元にはなんらかの仕事があるので、務めたいという希望者が断られることはまずありませんでした。そんな中に忘れられない同僚が何人かいました。

一番印象に残っているのはSです。履歴書などいらない世界だから正確なことは解りません。Sは秋田だか山形出身で東京の美術大学を卒業後、東京で油絵を描いていたと云います。

梅雨の時期でした。彼は絵の具箱一つ持って雨の中を傘もささずひとりで来ました。何年か前に絵画サークルの写生旅行で訪れたことがあるという理由だけでやってきたそうです。窯元の主を私たちは親方と呼んでいました。親方は笠間の駅前にある洋品店に彼を連れてゆき、着替をそろえました。どういうわけか、それに付き合わされたが、理由は今もって解りません。「製陶ふくだ」に十人以上の見習研究生がいましたが、親方にパンツを買わせたのは彼だけでした。親方にしてみれば「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」という心境だったのかもしれません。

Sは瀬戸屋になる気はありません。が、何もしないこともできず、親方は彼に絵皿の絵付けをさせました。彼の絵は自己流で、いわゆる陶画とは一味も二味も違っていたので評判が良く、彼も自分の居場所を見つけることができました。

また親方は彼に窯焚きを教えました。登り窯の第一室を本焼きに、二窯を素焼きにしていて、400度くらい、窯の中がうっすら赤くなるまでは薪をくべて焼きます。それが過ぎると重油バーナーに切り換え、風量と油量を調整しながら焼き上げました。彼が窯焚きを覚えればおぼえる程、どんな事情があったのか知りませんが、それまで居た古い職人さんが突然退職していきました。複雑な気持ちでしばらく仕事場に通いました。

時々、あいつ何してるかなあと思い出すのはYです。彼も突然ふらりとやってきていつの間にかいなくなりました。瀬戸から来て笠間にしばらくいて、北海道へ行ったと聞きました。北海道と笠間は以前から人の交流があり、彼以前にも何人か働きにいった者も多くいました。

Yは三十才を過ぎていたせいか二十代半ばの従業員が多かった職場にはあまりなじめなかったようで一人でいることが多かったけれど、ある日突然「これ買ってくれないか」と淡交社から出版されて間もない『原色陶器大辞典』の初版本を差し出しました。欲しくてたまらなかった本だけど、高くて手が出なかった本です。酒を飲む金が欲しいから売りたいと云われても迷います。手に入れるには五日分の給料が飛んでしまうので勇気がいりましたが、思いきって買ってよかったと今でも思います。笠間にくる荷物の中に重い本をしのばせていたのを酒のために手放す、どんな気持ちでいたのかと今となって思うけれど、当時は手に入れた喜びに浮かれていたと思い出すと、残酷なことをしたなあと思わずにはいられません。 陶潤舎工房

製陶ふくだ 登り窯

読みたおされて草臥れた『原色陶器大辞典』

Yがほかにどんな本を持っていたかはわかりませんが、笠間に来るまでは希望にあふれて瀬戸屋の世界に身を置いていたと思います。技術だけでなく、知識欲も旺盛で充実した日々を過ごしていただろうと思います。でなかったらこの本を手に入れようとも思わないだろうし、しかし、彼は『原色陶器大辞典』をもっていました。初版の発行は昭和47年だから、彼から譲りうけたのは昭和48年か9年で、その頃は『製陶ふくだ』から独立して自分の窯を持っていた頃なので、彼が工房に訪ねてきたのかもしれない。なぜ彼に選ばれたのか理由はわかりません。それからしばらくして彼は笠間からいなくなり、北海道に行ったという話を聞いたのはかなりたってからでした。

Nは小柄で、身長は160センチなかったけれど、エネルギッシュで行動的でした。瀬戸の『霞仏陶花』仕込みの流麗なロクロを引いて、驚かされました。笠間で覚えつつあった技術が色褪せて見えました。彼のロクロ技を見て気持ちが楽になった思いがしたのを覚えています。それまではこうでなくてはならないと教えられた通りに出来ないことが苦痛でしたが、色々な方法があることを知り、自分なりの方法でいいのだと思えるようになりました。点と点は決まっているが、つなぐ線は決められないことを教えられました。

Nが得意だったのは人形作りです。ロクロで引いた胴体に、頭部と手を付け、髪の毛は、粘土をふるいに押しつけてしぼり出して作るのを見てマジックのようで感心しました。身体は小さかったけれどもみ上げからアゴまでのヒゲ面が魅力的だったのか女の子にはもてていました。彼が笠間を後にする時にプレゼントされた手作りの人形を託された時は安請け合いをする我が身がうらめしくなりました。結局その人形はお炊き上げをすることで終わりました。

瀬戸屋になるには技術の習得だけでは駄目で、精神とか哲学という程のものではない何かが必要だと彼らから教えられた思いがします。ひとりで瀬戸屋になれるのではない、多くの人たちの謦咳けいがいに接することではじめて瀬戸屋になれるのだと知ったこの頃です。まだ「窯ぐれ」という言葉が魅力的な響きを持っていた頃の話です。

2019.6.2公開 | 小島 英一

脚 注

窮鳥懐に入れば猟師も殺さず
追い詰められて逃げ場を失った人が救いを求めてくれば、見殺しにするわけにはいかない。出典:岩波書店「広辞苑」第四版より
謦咳(けいがい)
せきばらい。しわぶき。また、笑ったり語ったりすること。出典:岩波書店「広辞苑」第四版より

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