陶芸家
小島 こじま 英一えいいち
茨城県 笠間市
小島 英一

’46年 千葉県千倉町生まれ。二松学舎大学大学院修了後、笠間市の製陶ふくだ、桧佐陶工房に勤務。翌年、現在地に築窯し『陶潤舎』設立。女子聖学院短期大学、鯉淵学園の講師なども務める。

著書に『陶芸の彩色技法』(共著)、伝統工芸品シリーズ『益子焼』(ともに理工学社)がある。

瀬戸屋になる - 私的笠間焼陶業史 - #1

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写真 | 小島英一

観光客を対象とした笠間の陶芸体験は50年近く前ここから生まれた。

陶磁器をつくる人を瀬戸屋という。陶芸家よりも瀬戸屋の方がしっくりくる。陶工は気難しそうで気づまりだ。瀬戸屋になりたいと思ったのは1970年のことで、24才になっていた。『朝日新聞』に笠間に若い人が入ってきて、東京銀座の『松屋』でグループ展をしている記事があった。その時笠間焼をはじめて知った。東京から一番近い陶業地であることを知り、早速訪ねた。目ざした窯元はすぐにみつかった。『製陶ふくだ』である。 瀬戸屋になる | 小島英一

笠間市内には笠間焼を扱っている店は常陽物産があるきりで、窯元の売店、陳列場といっていた、がその役割を果たしていた。そこに主人がいて、買物客(観光客)の相手をしているのを見つけ、吸い込まれるようにその前に立ち、「焼き物をやりたい。仕事をしたい」とやっと伝えると、こちらの緊張や不安が嘘のように、「いつから来るか」と答えが返ってきた。

こんなに簡単に決まってしまっていいものかとあっけにとられていると「めし、まだなんだろう」とトーストとインスタントラーメンを出してくれた。ありがたくいただきながら就職したいだけで他のことは何も考えていなかったことにはじめて気づいた。

瀬戸屋の仕事がどういうものか、全くわかっていないので不安になるはなかった。勝手に仲間にはいれた喜びの方が強かった。仕事場(ロクロ場、釉掛け場)や窯場などを見せてもらい、一ヶ月後から勤める約束をして気持ちを高ぶらせたまま帰路についた。

『製陶ふくだ』には下働きのあばさんが二人、窯詰め専門の職人が一人、若い研究生が三人だった。おばさんは板作りで皿を作るほかにコーヒー碗のハンドルをつけるなどしていた。研修生のうち一人は釉薬作りや釉掛けなどの作り以外の全てをこなし、他の二人がロクロ専門で、湯呑や小鉢などの小物を引いており、急須や壺などは賃引きという一個いくらで引く歩合制の職人が任っていた。こういった人たちは渡り職人といった。依頼を受けた仕事が終ると次の窯元の所へ自分の道具とともに渡っていった。

製陶ふくだ 登り窯

登り窯も修復され3.11の傷はない。〆縄が職人の仕事場らしい。

笠間の窯は当時灯油を燃料とする倒焔窯が多く、若い個人窯は電気炉が主流で、ガス炉が導入されはじめた。窯業指導所にもガス炉はなかった。製陶ふくだでは登り窯の第一室で本焼を、二室と三室で素焼をしていた。変則的ながら登り窯を使っている窯元は他になかった。

ロクロ場の前に鉄砲窯という井戸枠のような素焼窯があった。この窯は湯飲みのような小物専用で、五、六段湯呑を重ねて詰め、上ぶたは素焼のかけらを利用する簡単な構造で、炊飯と同じく、はじめチョロチョロ、中パッパという具合に焚くものだった。窯焚きの最後に勢いよく焼やすく、ススが切れ、中が赤くなったら焼き上がりだった。

素焼窯はめったに使われなかったが、急ぎ時や登り窯にはいりきれなかった時が出番で、小さい窯とはいえ窯焚きができる楽しいひとときだった。焼き物作りの仕事は新前にもできることが多かったことは一人前になったようで気持ちよかった。

2018.6.1公開 / 2018.6.21更新 | 小島 英一

協 力

製陶ふくだ
寛政八年から約230年続く、笠間の窯元のひとつ。小島さんが働いていた’70年当時と変わらない風景が残っている。 〒309-1626 茨城県笠間市下市毛754 ホームページはこちら
陶潤社
小島 英一
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