- 陶芸家
- 根岸 よねお
- 茨城県 石岡市
30代までは働いては旅に出るということを続け、40歳で陶芸家となる。アメリカ暮らしの長かった氏の作風には、東洋が色濃く、朝鮮陶磁や桃山陶磁の雰囲気を残した食器や花器、茶陶を多く焼いている。
30代までは働いては旅に出るということを続け、40歳で陶芸家となる。アメリカ暮らしの長かった氏の作風には、東洋が色濃く、朝鮮陶磁や桃山陶磁の雰囲気を残した食器や花器、茶陶を多く焼いている。
不易の人
貼られたメモ。ちょっと早く着きすぎたようです。
焼物に興味がなかった。
アルバイトをして資金ができると外国へ出掛けた。旅行という程洒落たものでもないし探検というものでもない。ただ日本から飛び出したかった。資金がつきると日本に戻り、資金ができると出掛けるという暮しを続け、二十二歳の時にはじめて行ったニューヨークは刺激的だった。再びニューヨークを訪れるのは五年後、二十七歳の時だった。ニューヨークでの暮しも基本的には変わらない。アルバイトをしては外国に出掛け、四十歳になるまでに行った国と地域は五十を越えると根岸さんはいいます。「いまでいうフリーターだよ」と。
三十歳の時、ニューヨーク近代美術館で見た『李朝陶磁展』ではじめてやきものに感動します。韓国を訪れた時に高麗や李朝のやきものを見ているはずなのに印象にないといいます。それがなぜ。当時を回想し、「潮時でしょうね」やきものを作る暮しがどういうものかもわからず、四十歳になったらやきものをやると決めたと根岸さんはいいます。
メトロポリタン美術館には多くの日本陶磁が収蔵されています。それを見ると、日本のやきものはすばらしい、そこで、やるなら日本のやきものだ。なぜか根岸さんは日本人であることを意識します。
ニューヨークの暮しは週給制で、一週間分が家賃、二週間分で食費、三週間分は旅行、四週間分が貯金が一般的でした。それがプラザ合意のあと、円高もあり、家賃と食費で給料がなくなるように変わってしまい、ニューヨークに居る理由がうすれてきました。その頃です。親しくしている人が出入りしていた五十七丁目の日本書籍店のオーナーの義弟が、笠間でやきものをやっていると紹介され、糸口が見つかったような気が根岸さんはしたといいます。潮が満ちるように状況が整ってきました。
四十歳を目前にニューヨークは離れ、ハワイに半年間生活をしますが、するべき仕事はありません。ビジネスには興味はなく、生活するには魅力がいっぱいで、土地を購入するところまで話はすすみますが、生きる、主体的に生きる場所としてハワイはのどかでやさしすぎ、いよいよ日本へ帰ることにしました。が、ただちにやきものの暮しに入ることはせず、半年間、工場の夜警のバイトをするなどして日本の社会復帰にそなえます。一見、行きあたりばったりのような根岸さんですが、そうではありません。
笠間がどこにあるかもわかりません。笠間焼が何かも知りません。それでもやきものをやりたい、ただそれだけで、笠間にやってきました。紹介された製陶所の水は根岸さんに合っていたのでしょう。窯場のおばさん達にも信頼され、またたく間に三年が過ぎていきます。
独立を考え、土地をさがしはじめますが、そう簡単には見つからず、休日に、一年近く自転車でさがしまわりましたが、笠間市内をあきらめ、笠間の南、八郷地区にあたりをつけます。
八郷地区は温暖な気候で、ミカンの北限、リンゴの南限、梨や柿などの果樹栽培の盛んな地域のうえ、有機農業をしようとする若者にも機会を提供するなど、開かれた地域です。これまでに三人ほどが窯を築いていました。笠間から八郷へ行くには吾国山の峠を越えなければなりません。笠間は盆地なので、南と北へ行くには……特に南は曲がりくねった急坂が続き、自動車でも敬遠する人があるくらいの、できれば通りたくない道のひとつです。そこを自転車で越えるのは、独立の夢があったからできたことです。さすがに帰りは平坦な道を遠回りして笠間に帰ったと根岸さんはいいます。
根岸さんは一目で八郷が気に入り、絶対ここに窯を築こうと決意します。いくつかの偶然が重なり、地主さんに会うこともでき、一年間さがし続けた苦労がうそのように熱意が伝わり、集落のはずれ、吾国山への登山道の入口の中腹に、居を定めることができました。
カフェは見当たらなかったので自然を堪能します。
住居と工房を作り、移り住みますが、何を作ってよいか、何が作りたいかわからず、窯元に勤めながら、ロクロや窯などの設備を整え、独立ができたのは一年後でした。やきもので生きていこうと決意してから六年がたっていました。
製作について
粘土をはじめ、釉薬原料は極力自分で作るようにしようと根岸さんは考えました。八郷町の各地で上下水道工事が頻繁に行われ、その都度粘土らしきものが道路わきに山積みされているのを見つけると、もらいうけ、工房へと運びました。また、近くの崖にも良質の赤土があることがわかりました。それらを単身で用いたり、混ぜ合わせたりすると味のある焼き上がりになることもわかりました。市販の粘土も使いますが補助的な使い方をするように心掛けます。
土や釉薬。あちこちに積まれた素材。
釉薬の種類も多くありません。自作の灰、主に木灰とワラ灰を中心に購入した長石などを調合します。木灰と
ワラ灰と木灰と長石を合わせると、糠白、白萩釉と呼ぶ乳白釉ができます。根岸さんの作る釉薬は伝統釉と呼ばれているもので、その姿勢は身近にある原料に目を向けて大切に扱う民陶を作り続けてきた職人たちの姿そのものです。
根岸さんの木灰は
こうしてできた灰を水漉します。用器に灰を入れ、たっぷりの水を注ぎます。燃えかすや軽いものは水に浮きます。まず、それらを取り除き、つぎに軽く混ぜると重い砂などの不純物が沈むので、中間層の灰を別の用器に移し、沈殿したら上わ水を捨て、新たに水を加え、しばらく放置すると水がアクでぬるぬるしてくるので、この上わ水を捨てて水を加えることを何度か繰り返します。水のぬるぬるはアルカリ成分が溶け込んでいるためです。この水溶性アルカリ分を取らないと素地に侵入して耐火度を弱めたり、煙を巻き込んで釉薬を黒ずませたりします。取り過ぎると溶けにくくなるといった欠点にもなります。
作家さんの中では整然と配置されているであろう素材たち。
ワラ灰やモミ灰(荒糠)も同様に、黒くなるように燃やします。火をつけたまま放置すると白い灰になってしまい、使い物になりません。そこでワラに火をつけ、頃合をみながら水をかけて火を消します。早すぎると灰にならず、遅すぎると白くなってしまいます。できた灰を臼でついたり、ミルですって細かくします。ワラ灰は水に浮くので、ミルでする場合の水加減にコツがあり、熟練を必要とします。
木灰やワラ灰作りはこれで終わりではありません。品質を一定に保つには使い切る前に新しい灰を補充します。三分の一使ったら、新たに三分の一補充するという作業の繰り返し、品質の違いを最小限にとどめるようにします。同じ木でも元と梢と枝では成分が異なるので、常に平均値をとるような作業の繰り返しが求められます。ともすると焼き物作りは焼き上がり、完成品だけが重要視されますが、根岸さんは土作り、灰作りという成形以前の作業もひとつひとつ楽しんでいます。
根岸さんは倒炎式の灯油窯0.5立米を使っています。全体に釉掛けをし、高台の内側に粘土で作った小さな目で受けて焼き上げます。手間のかかる作業は茶陶などではいまも続けられていますが、普段使いの食器作りに用いるのは根岸さんの仕事の丁寧さを物語っています。
折り重なる材料や道具。
人間社会の事象は常に変化し続けるものと変化しないものとが混ざりあって成りたっています。それを松尾芭蕉は「不易流行」といったといいますが、表面の華やかに変化し続けるものにはさほど関心を示さず、内にひそむどっしりとして動かない根のようなものを作るという営みを通して体現している根岸さんは不易の人というにふさわしい人です。
2018.8.15公開 | 小島 英一
脚注