- 陶芸家
- 飯田 卓也
- 茨城県 石岡市
‘47年東京都出身。大学時代に陶芸と出会い、一旦就職はするものの、卒業後の夏には愛知県窯業訓練校へ。その後、時には現地で焼き物の仕事をしながらアジア、ヨーロッパ、アメリカを経て、笠間へ着き、現在に至る。
‘47年東京都出身。大学時代に陶芸と出会い、一旦就職はするものの、卒業後の夏には愛知県窯業訓練校へ。その後、時には現地で焼き物の仕事をしながらアジア、ヨーロッパ、アメリカを経て、笠間へ着き、現在に至る。
慈悲の人
昭和22年、東京に生まれた飯田さんがはじめて焼き物作りにふれたのは入学した大学の「陶芸クラブ」でした。その時は一生の仕事になるとは考えてもいません。ただ面白そうだからといった軽い気持ちでした。当時の大学は「学園紛争」の嵐に吹きあおられていて、身の置き所に苦悩する日々が続くなかで、土に触れることはなぐさめの一つだったと思われます。
大学を卒業した時には、とりあえずの気持ちで非正規の役所務めをはじめます。その年の夏休みに瀬戸に旅行し、愛知県窯業訓練校を見学します。明日が入試だという日でした。受験をすすめられ、急遽健康診断書や願書を提出、受験し、合格します。訓練校が何たるかもわかりません。時の勢いのようなものと、学生時代の陶芸体験のなせる業だったとしか言い様がありません。
卒業後に就職した製陶工場では機械ロクロ(陶車)で食器表地を作る仕事につきます。ベテランの職人さんには及ばない仕事量がくやしくて、努力して同じように仕事をこなせるようになった飯田さんはノルマ以上には仕事をしませんでした。作れば売れる時に残業しない飯田さんは社長にとって「いい社員」ではありません。しばらくして飯田さんは東京に戻ります。
東京に戻った飯田さんは都内の陶芸教室の助手になります。その内に萩焼の十三代続く窯元の息子がアメリカ西海岸で日本式(萩焼式)の陶芸教室を開く計画したことに伴い、ロクロのできない経営者のスタッフになります。外国の田舎で暮らしたいとずっと思っていたので、一も二もなく飛びついたといっていいかもしれません。電動ロクロの経験はあったものの、蹴りロクロの技術を身につけるために萩の窯元で修行をします。井戸茶碗作りを継承する窯元では技術だけでなく、ものを見る目も鍛えられました。毎日のように歴代の茶碗を手に取り、見続けることで飯田さんは焼き物作りをする上での「ものさし」を手にすることができたと言います。
アメリカ行きが窯元の都合で中止になったものの、外国への思いは消えることはありません。窯元や製陶所でロクロ成型のアルバイトをしては、台湾をはじめ東南アジアやインド、中東からイギリスなど三十数ヶ国を旅します。旅費がなくなると日本へ戻り、アルバイトをし、資金ができると出掛けることを続けました。旅先でも製陶所で働きました。台湾では都合半年間働きました。アルバイトはしたけれど焼き物作り以外の仕事はしなかったと飯田さんは言います。イギリスでは「オーバーステイ」で国外退去になるといったこともありました。
一番長く居たのはアメリカで、三年を過ごしました。製陶所では工場長にならないかと勧誘され永住権の取得も目前でしたが、ふと気付いたことがありました。田舎暮らしをするなら、外国も日本も同じじゃないか、日本へ帰ろうと。30才頃の時でした。
アメリカからの帰路、東南アジアから香港を経由して福岡に着き、ここで田舎暮らしの場所を探すために中古車を買い、途中寄り道をしながら北上し、たまたま知り合った女性から笠間を紹介され、彼女が授業した女性陶芸家のロクロ師になります。笠間での暮らしにも慣れた頃に八郷の現在の土地を知人からすすめられ、購入します。思えば長い道のりでした。
飯田さんの自宅と工房は水田の脇を入った斜面にありました。プレハブ造りの工房と自宅の住居、物置や窯小屋など五棟が点在して、小屋の周囲には使われなくなった耕運機や機械が所狭しと置かれていて、焼き物をする人の家とは思えません。現実には、なかなか手が回らないけれど、機械は修理をして使えるようにしたいと思い続けています。まずは、古いモーターを利用して、製粉機を作ることを考えています。それというのも近くに借りた畑で作る小麦を製粉するために早急にしなければいけないからです。
小麦を使ったパンだけでなく、ヨーグルトや味噌を作っています。醤油も作るつもりで準備をしています。他にも作れるものはすべて作ろうと計画は次からつぎへと拡がっていきます。
飯田さんの田舎暮らしは多岐に渡ります。野菜作りは序の口で、夏になると、すずめ蜂の駆除が加わり、忙しくなります。日常生活で焼き物作りが主で農作業や食品加工が従といった考えはありません。すべてが主なのです。田舎暮らしをしたいという生活をしていたら、こうなっただけで、気負いなどなく、たんたんとしています。目下の楽しみは自家製の炭を使ったコーヒーの焙煎です。風や小鳥の声を聴きながら、一杯のコーヒーを時間をかけて楽しむ、至福の時です。
飯田さんと話していて気付いたことがあります。飯田さんは焼き物への思い、技術の話をほとんどしなかったし、陶歴書のようなものも持ち合わせていないようなのです。焼き物について一切自己主張をしないひとに会ったのは、はじめてです。よく、ピンキリといいますが、飯田さんは焼き物作りを続けてきて、ピンとキリを経験したひとなのかもしれません。何がピンで何がキリかは他にゆずるとして、天国と地獄、絶頂とどん底のようなもの、両方を味わったひとのような思いがします。そうでなければ、透明感あふれる暮らしのたたずまいは得られないだろうと思うのです。
自家用にしているアメリカ時代に作ったマグカップとコーヒーポットを見せていただきました。マグの把手はアメリカではポピュラーな下の部分をくるりとまるめた遊び心にあふれていますし、コーヒーポットは黒いつや消しの釉薬の掛かった直線的なシンプルな形をしています。当時の暮らしの中から生まれてきた焼き物です。飯田さんにとって焼き物は生きる目的だと思います。自分の暮らしのために作る。売るためではなく、使いたいから作る、そんな思いが伝わってきます。粉引の皿や灰釉の急須、ぐい呑や茶碗など、使いたい思いが伝わり、存在感あふれる焼き物になっている、そんな感じがします。
壊れて放置された農機具がしのびなくて、手元に置き、再び使えるようにしたいと思っている飯田さんにとって不必要なものは何一つなく、「山川草木悉皆仏性」を実感しているのかもしれません。仏のかわりに陶を入れたらい飯田さんの気持ちが少しは理解できそうです。慈悲の人です。
2019.6.14公開 | 小島 英一