陶芸家
藤田 ふじた 光広みつひろ
茨城県 小美玉市
藤田 光広

‘69年 茨城県生まれ。’95年に明治大学卒業後、’01年に茨城県窯業指導所 後期釉薬科技術指導終了。
翌年より清水正章氏に師事。’03年には小美玉市竹原に築窯し、「竹原陶房」として独立。

笠間の窯人 #5

啐啄そったくの人 藤田ふじた 光広みつひろ

写真 | 藤田光広

表札からは、かなり前のめりな姿勢なのがうかがえる。

小美玉市竹原の国道六号線沿いに藤田さんの工房があります。屋敷林に囲まれた農家の広い敷地の一画に建てられた納屋を利用した工房と窯場で、藤田さんの生家です。下家に丁度丸テーブルが置かれていたので、そこで取材することに。家の中へとすすめられたのですが、林を抜けてくる風が心地よく、国道を走る車の音を気にしなければ別天地のようです。あいさつもそこそこにお母さんが手製の梅ジュースと水瓜すいかをすすめて下さり、恐縮の限りです。お母さんは小柄というよりも小さい人です。小さな身体からはちきれそうに自分のことはさて置き、子供たちや他を一番に考える人であることが伝わってきます。水瓜にはかすかに感じられる程の塩がかけられていました。 陶芸家 藤田光広

小説家になりたかったと藤田さんはいいます。文章を書く仕事がしたいと、大学卒業後応募した沖縄の新聞社に記者として採用されます。仕事は楽しく、充実した日々、よく行った壺屋ちぶや通りの喫茶店でコーヒーを飲み、記事を書いたり、その時の壺屋焼のコーヒーカップの存在は忘れられない。やきものを意識した最初ではないかと藤田さんは述懐しています。

東京に戻り、小説を書き続けますが、思うような成果は得られないまま四年が過ぎ、帰郷せざるを得なくなりました。近くの工業団地にある機械メーカーに契約社員として勤め、そこで器用さを意識させられます。自分ではさほど思っていませんが、細かい作業をまかされるようになる一方、いわゆる派遣切りにもあいます。そんな時に、あの壺屋のコーヒーカップが目に浮かんできました。やきものをやりたい、どうしたらできるのかもわからず、笠間焼協同組合を訪ねます。丁度陶壁を受注した工房を紹介され、助手として採用、三ヶ月を過ごします。その後二度程同じように陶壁の助手を計二ヶ所で九ヶ月勤め、その間にやきもの作りの雰囲気を知ることができました。 陶芸家 藤田光広

釉薬について何も知らないことに気付き、茨城県窯業指導所の釉薬基礎コース(三ヶ月)を受講することにします。二〇〇二年のことです。翌年にはガス窯0.5立米を発注し、納屋を工房にして独立をします。両親にはすべて事後報告です。両親は窯の代金を支払い、農機具の小屋を新たに作るなどして協力を惜しみませんでした。

「その後はどうしてましたか」と聞くと「失敗してました」即答が返ってきました。失敗と思考の記録は一冊六十枚の厚いノートが百冊近くになりました。現金収入を得るためにホームセンターの美術部門に勤めます。そこで表札製作にたずさわります。 陶芸家 藤田光広

表札製作ではさまざまなことを学びました。樹脂を扱い、象嵌の方法などは現在のやきもの作りに役立っていると藤田さんはいいます。気がついたら窯を持ってから七年が過ぎ、はじめて出店した「笠間の陶炎祭」では店の中に人が入ってくれず散々な思いをします。両親は遠くの木の陰から見ていたそうです。藤田さん以上に先行きの不安を感じずにはいられなかった当時の両親のことはいつまでも心の片隅に残り続けています。それでもやきものを志してから十年、かすかながらも手ごたえを感じた、藤田さんにとって新たな出発の年になりました。 陶芸家 藤田光広

藤田さんの工房は築五十年は過ぎていると思われる梁や柱の太い広い納屋が三ヶ所、五平方米程に仕切られ、それぞれが宇宙ステーションのようにコンパクトにまとめられています。ロクロのまわりは棚がめぐらされ、道具が納められています。平皿などを作るタタラ作りの部屋も同様です。熊が冬眠するような藤田さんにとって居心地のよい空間なのかもしれません。原料だけでなく在庫もきちんと整理され、積み重ねられた箱の中もわかるようにしています。すべてが整頓されている様は、みごととしかいいようがありません。

写真 | 藤田光広

区切られた作業場が秘密基地のようで遊び場と仕事場を兼ねて見える。

製作について

藤田さんの製作技法はほとんど独学といえます。すでに述べたように、経験といえば相手の都合により二ヶ所の工房を歩いただけです。幸運だったのは雇主の個性ややきものに対する考え方が異なっていたことです。経営能力を発揮する人や政治的に長けた人もいました。藤田さんが最も魅力を感じたのは、完成度を高める努力をする姿でした。その姿は現在の藤田さんの姿に通じています。早く作ろう、簡単に作ろう、楽に作ろうと藤田さんは思いません。どうしたらイメージ通りのものができるか、試行錯誤を繰り返します。過程を楽しむかのように。

窯元には理論や方法がありますが、藤田さんはそれを知りません。自分で編み出すしかありません。陶板作りで覚えた板作りが基本で、タタラでの皿作りからはじまり、見様見真似で覚えたロクロによる器作りから出発します。丁度やきものを始めた頃は作れば売れる時を過ぎ、売れなくなったからこそ腰をすえて物作りができたと藤田さんはいいます。

施釉方法ひとつとっても、藤田さんは手間を惜しみません。一般に浸し掛けや均子掛けする場合でも藤田さんはしません。それをすると釉の流れ具合やたまり具合が均一にならず、偶然性により思い通りのものも、意に反するものもできます。藤田さんはイメージ通りになるように、釉薬を筆塗りします。焼成での釉薬の溶け具合を考えある部分は厚く、薄くと、同じ釉薬の濃度を変えて三種用意し、ムラにならないように施釉をします。そのため0.5立米の窯が詰め終わるのに十日掛かります。他の窯元なら一人で一日か二日で終わる窯詰がです。

写真 | 藤田光広

多くの道具や素材はそれぞれの作業区画に収納されている。

釉掛けにかぎらず、形においてもより高い完成度を目指します。自己主張とは少し違った藤田さんにとってこの皿はこうあるべきだというイメージをとことん追求した結果が形であり、焼き上がりです。窯元に長く勤めセオリーを学んでいたら、また別な方法をとったかもしれませんが、何も知らず、独学だったから常識にとらわれず、作りたいものも作るにはどうしたらよいか試行錯誤の果てに身につけた方法です。 陶芸家 藤田光広

藤田さんの仕事の一つにワンポイントの鉄絵があります。抽象的な絵付けはジャクソン・ポロックなどの現代絵画を連想させますが、これは下絵具を浸み込ませた木綿糸を素焼の上に垂らして描いたものです。

藤田さんはやきものを仕事にしようと決意したとき、作りたいものがあったわけでもありません。あこがれの作り手がいたわけでもありません。ただ沖縄時代、壺屋通りにあった喫茶店で手に持った色絵のコーヒーカップのあたたかさが突然よみがえり、「そうだ、やきものをやろう」と思い失敗を繰り返しながらも続けてきたことから見えてきた何かが藤田さんが前に進む力になっています。

人間、何が幸いするかわかりません。やきもの作りの合理的で洗練された技術を身につけることのなかった藤田さんにとって、失敗のなかから見つけだした手答えをひとつひとつ積み重ねて生まれてきた形を納得のゆくまで追求する姿には結果だけでなく、過程をも楽しむよろこびにあふれています。作っていると、次はこうしてと次の形が浮かんできます。藤田さんはいいます。「お客さんにはこれまでのものは忘れて欲しい。次を楽しみにして欲しい」と。独立当初の歩みののろさがいまもどかしさとなって甦ってきているのかもしれません。

つぎつぎに生まれてくるイメージに圧倒されるようなもどかしさと、それとはうらはらな㐂びに満ちあふれた藤田さんは孵化直前のように、思いを具現化すべく卵の内側から殻を破るべくつつき続けているように感じられます。新しい世界にはばたくべく。それはどのようなものか、藤田さんにもわかりません。作り続けることでしかわからないし「作りたかったのは、これだ」と後になって気付くものだからです。新たな器を生みだすために藤田さんは殻を破り続ける、まるで啐啄を続けるヒナのように作り続ける啐啄の人です。 陶芸家 藤田光広

2018.9.1公開 / 2018.12.27更新 | 小島 英一

竹原陶房
藤田 光広
住所:〒319-0113
茨城県小美玉市竹原2089
T 0299-47-1311